2014年02月05日

史跡『詫間海軍航空隊跡』〜その1〜


こんにちは!もりいちです!


須田バイパスを通って、荘内半島に入って行った
ところにあります。史跡「詫間海軍航空跡」
というのをご存知でしょうか? ペン関連記事はこちら
IMGP0664.JPG

この史跡のある地区には、かつて太平洋戦争の
時に「神風特攻隊」の基地があったんです。
IMGP0663.JPG

僕自身恥ずかしながら、三豊市に住みながら
この様な場所がある事を知りませんでした。

そして、過去の歴史を学ぶべく
今回、改めてこの史跡を訪れましたひらめき



ペン詫間海軍航空隊とは!?
太平洋戦争開戦にともなって、航空要員を大量に養成するため、
実用機を用いた練習航空隊を急造。軍備が増強されていく中、
水上機の練習航空隊の一つとしてできたのが「詫間海軍航空隊」です。

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ペン詫間海軍航空隊の変遷
昭和16年11月に建設が発表されて、詫間町の香田(こうだ)
・和田内(わたうち)地区の土地が買収され、また新浜(しんはま)地区
には「呉海軍軍需部詫間補給所」が建設されることになり、3地区合計で
約37ヘクタール、約130戸が強制的に立ち退かされました。


建設に際しては、呉海軍と地元の勤労奉仕隊員が官民一体となって建設し
昭和18年6月1日に、「詫間海軍航空隊」が開隊。
九四式水上偵察機二式飛行艇などが配備され、各地から2000人
以上の兵員が着任して、連日猛訓練が行われました。

そして、昭和19年9月には、「横浜海軍航空隊」が沖縄攻防戦に
備えて、主力を詫間に移すことになり、「詫間海軍航空隊」が
一大作戦基地となりました。

その後、昭和20年4月25日。「第五航空艦隊」は、決戦体制を整える為に
全飛行部隊を統合して、「実践部隊詫間海軍航空隊」を編成。

米軍戦闘機との死闘や特攻隊の誘導など過酷な作戦を通して、
二式飛行艇27機と250名の精鋭を失いました。


IMGP0671.JPG



ペン神風特攻隊の編成
昭和20年2月16日に、特攻訓練の実施が発令され
「神風特別攻撃隊琴平水心隊」が編成されました。

また茨城や鹿児島の航空隊でも「神風特別攻撃隊魁隊」が編成され
「詫間海軍航空隊」に進出。両隊ともに猛訓練の後、
昭和20年4月29日から5月28日まで の1ヵ月間、

小型機の胴体に250キロの爆弾をワイヤーでしばりつけたまま、
詫間湾から激戦中の沖縄戦線へ、4次にわたり36機が出撃し、
52名の若者が戦死。


特攻隊の燃料補給・爆弾装着など各種作業に心血を注いだ
隊員は、出撃する戦友を断腸の思いで見送りました。


また、「詫間補給所」を利用した修理工場では
徴用工員、増川挺身隊員、女子年少工、動員学徒を加えた
約800名の若者が、飛行機の修理に精根を尽くし、
必死の思いで飛ばし続けました。

IMGP0697.JPG

次項有それでは次回、石碑の周囲に今も残る史跡
をご紹介します!




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ペン「詫間海軍航空隊」参考サイト
 @AB


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posted by ほんまモンリポーター at 07:26| Comment(2) | ◯秘!? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
詫間空から特攻で出撃した隊員を、私の母の実家に下宿していたことがあるそうです。当時は、三階の西脇で通じたらしいです
Posted by 藤原 秀憲 at 2014年08月08日 23:14
藤原様

コメントありがとうございます。
詫間にも、そのような歴史があったのですね。
今もひろがるきれいな海は残されているのと同時、歴史の現実も知り、伝えることができたらと思います。
Posted by さくら at 2014年08月09日 07:23
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